研究者として、
輝きたい
女性たちの為に。
ダイバーシティ研究環境実現
イニシアティブ(牽引型)
ピアノの演奏家として活躍しながら、世界に羽ばたく演奏家の育成を目指されている岡本先生。国内外の著名な恩師から学んだ「音楽を愛する心と自分を信じる心の大切さ」を学生にも伝えていきたいとの想いを抱き、後進の育成に励まれています。現在は、幼いお子さんの育児と授業、演奏活動の両立にも奮闘されており、自分を信じて果敢に挑戦する勇気を与えてくれる先生です。
私がピアノを始めたのは3歳の頃。先にピアノを始めていた二人の姉の影響でした。本気でピアニストを目指したきっかけは恩師である故井上直幸先生との出会いです。子どもを教える天才のような方で、小学5年生だった私をいつも褒めてくださり、自信をつけてくださいました。曲に応じて想像力を膨らませて表現する音楽の素晴らしさや楽しさを教えていただいたことは、今も忘れられません。高校は地元大阪を離れて単身上京し、井上先生が講師をされている桐朋女子高校音楽科へ進学。東京では一人暮らしで最初の半年ほどはホームシックでしたね。7畳1間に小さいグランドピアノを入れ、その下にパイプベッドを置いて寝ていました。高校には優秀な生徒が多く、お互いに切磋琢磨しながら刺激を与え合い、音楽の楽しさを満喫しました。井上先生やほかの先生から「早く外国へ行った方があなたに合っている」と言われていたので大学は留学するつもりでした。高校3年生の時にイタリアのコンクールに参加したのですが、偶然私がファンだったピアニストのミシェル・ベロフ氏が審査員でした。そこでミシェル・ベロフ氏がドイツのフライブルグ州立音楽大学へ着任して教鞭を執ると知り、先生の元で学びたいと同校へ留学を決めました。
フライブルグ州立音楽大学での授業はドイツ語でしたが、楽譜を理解していれば言葉でわからない部分があっても通じるものがありました。友人にも恵まれてドイツ語もマスターし、憧れのピアニストの授業を受けられるという恵まれた大学生活を満喫しました。ただ、フライブルグはコンサートの開催がほとんどない街でした。また、学生同士の仲はよかったのですが音楽家として切磋琢磨するという環境ではなかったので、音楽の本場に留学したのに少し物足りない気持ちもありました。
演奏家としてもっと成長できる環境を求め、大学院を修了後はケルン音楽大学演奏家資格コースへ進学。同大学は日本にはない現代音楽科や室内楽科があり、著名な演奏家が教授として集まるレベルの高い音楽が学べる環境でした。私は世界的なピアニストであるパーヴェル・ギリロフ氏に師事することが叶いました。繊細な響きを奏でる先生に近づきたいという一心で、全てを吸収し自分のものにするために、何度も何度も練習を繰り返し、毎日5時間以上、コンクール前は10時間以上練習しました。現在私が得意とする現代音楽作曲家のメシアンの曲を勧めてくださったのはミシェル・ベロフ教授です。弾いてみると自分にしっくりときて、それから「いつかメシアンの本場パリで自分のメシアンを関係者に聴いてもらいたい」という目標もできました。また、ケルンでは毎日コンサートが開催されていて、1000円ほどの立見券で演奏を聴くことができたのです。ようやく本場で学んでいるという実感が得られ、充実した日々を送りました。
ドイツに8年ほどいたのですが、その間、2001年はケルン・ショパン国際ピアノコンクールで第1位、ロン・ティボー国際コンクール第6位、2003年エリザベート王妃国際音楽コンクールでファイナリスト・ディプロム賞を受賞するなど、国際コンクールでも評価を受けることができました。ケルン音楽大学演奏家資格コースを修了後、このままドイツに残って仕事を見つけて生きていくかどうかを考えたのですが「もう充分やりきった。日本に帰ろう」とすぐに飛行機のチケットを購入していました。その頃は27歳になっていましたし、しばらく離れていた日本でやっていけるのだろうかという不安はありましたが、自分の音楽で自立していかなければと演奏活動を開始。国際コンクールで受賞したからこそ、いつもいい演奏をしなければというプレッシャーもありました。今後につなげるために1回1回のコンサートで最高の演奏をしようと思っていたので、精神的にはとてもしんどい時期でした。また、恩師の先生方は演奏活動だけではなくピアノの指導者として活動されていたので、私も指導者として活動することは自然の流れでした。ピアノ楽器店の方から京都市立芸術大学で公募があることを教えていただき、非常勤講師として指導者としてのキャリアもスタートしました。
いざ教える立場になると戸惑うこともたくさんありました。これまでの自分の基準を押しつけずに、学生自身が生み出す芸術をどのように導くのかということの難しさに直面しました。あの時こんなことを言われたなと、これまで数々の恩師から掛けていただいた言葉を思い出しながら指導しています。
2007年は非常勤講師の仕事を休み、パリで行われたメシアン国際現代音楽ピアノコンクールに参加することを決めました。参加制限年齢の30歳であったこともあり、目標であったメシアンの関係者に聴いてもらうチャンスだったからです。パリでレッスンを受けるなど1年前から準備を行い、全身全霊で臨んだコンクールでは第3位に入賞。ガラ・コンサートに抜擢されピエール・ブーレーズの指揮でアンサンブル・アンテルコンタンポランと再共演することができました。それが2008年のメシアン生誕100周年記念リサイタルの開催につながりました。
その後、大阪教育大学の公募があり、2015年より准教授として指導を行っています。非常勤講師とは違い、学内コンサートの企画やカリキュラムのことなど慣れないことだらけですが、先輩の先生方に教えていただきながら運営にも携わっています。今後の目標は質の高いピアノの指導を行い、学生のレベルを上げていくこと。目標を高く持ち、世界に飛び出す積極性と実力を伸ばしてあげたいと思っています。コンサートは譜面がない怖さがあるのですが、練習の時には出てこなかった自分の感性が飛び出してくる感覚があり、本番でしか味わえない特別な音楽があります。この楽しさや魅力を学生にも味わってもらいたいと思っています。
大阪教育大学へ着任した2015年に結婚。子育てしながら活躍しているピアニストは多いので、子どもはいつか授かったらいいなと思っていたところ翌年の3月に妊娠しました。産休・育休は1年間のつもりでしたが、産後の体調がなかなか回復せず結局1年半取得しました。復帰後は授業の時間割を工夫して、夕方の保育園のお迎えに間に合うようにしています。夫と家事・育児を分担して行っていますが、まだ子どもが2歳なので休日も休んでいる感じがしないですね。私の場合は研究=ピアノの練習になるのですが、保育園へ迎えに行き、食事やお風呂、寝かしつけを終えた後に2~3時間の練習時間を確保するのが精一杯。とはいえ、子どもも少しずつ手が離れてきますので、ピアニストとしてソロリサイタルを定期的に行っていきたいですし、関西だけではなく東京や地方での演奏会も意欲的に開催していきたいと思っています。
音楽の道は成功するか失敗するか全くわからない厳しい世界ですから、自分が諦めてしまったらそこで道は終わってしまいます。コンクールや実技試験で成績が振るわずに自信をなくした学生さんから「このままピアノを続けても10年後の自分の姿が見えてこない」と不安の声を聞くことがありますが、私が学生の頃に先のことを考えていたら一歩も進めなかったと思います。怖がっていても何もできません。大切なことは自分の個性や感性を信じることです。
その時その時で「今できること」に懸命に取り組むことで自分の道が拓けると思います。音楽に対する愛情を持ちながら今の自分に満足せず、新しい可能性を見つけていく気持ちを忘れずに進んでほしいと思います。日本だけに留まらず世界に飛び出して、才能や感性を磨いて羽ばたいていただきたいです。