先人が拓いてくれた道を、後進へ

成寛先生のお話の中には、沢山のお名前と感謝の言葉が出てきます。それは、先生を支えて下さった方々への感謝の思い。介護、ご自身の病気、そしてまた介護、、、沢山の困難を乗り越えてこられたのは周囲の皆さんのサポートのおかげ、そして自身の楽天的な性格のおかげかな?と悪戯っぽく微笑まれる成寛先生。自分の経験をオープンにすることで、今度は自分が誰かの支えになれたなら、という言葉が印象的な素敵な先生です。

大阪教育大学 教育学部
教員養成課程 国語教育講座
成實朋子教授 TOMOKO NARUMI
1967年生まれ。大阪教育大学大学院にて教育学修士取得後、大阪国際交流センターの外国人相談員や非常勤講師として働きながら1998年に結婚。2002年に大阪教育大学に着任。2017年より研究支援員派遣制度を利用し、介護と両立して中国と日本の児童文学について研究に取り組む。
1,キャリア形成の道のり
仕事をしながら研究・発表を続けたことが今につながる

大学に入学した時は初等教育教員養成課程で、児童文学を研究するつもりでしたが、1回生の時に中国旅行へ行ったことがきっかけで中国語を学ぶようになり、研究につなげたいと思うようになって。そこで卒業論文は「中国の作文教育について」をテーマにしました。それからさらに中国の国語教育を探求したくなり、大学院に進学して当時は珍しかった日本と中国の比較国語教育の研究を始めました。

そして、修士論文の資料集めと中国語を学ぶため1年間中国へ留学したのですが、8月に帰国したので教員採用試験を受けられなくて。そこで、講師をしようと登録に大阪市の教育委員会へ訪れた時に、国際交流センターの相談員の仕事を紹介され、4月から外国語相談員としてスタート。教育委員会からの紹介で、学校の先生、中国人の親御さん、子どもの三者面談などの現場で通訳もしました。

一方で、大学に入学した頃にしたかった児童文学への思いが頭をもたげてきて。院に入ってすぐの頃に日本とフランスの比較国語教育を研究されていた中西一弘先生が「外国のことを研究するなら誰よりも日本のことを知っていないとダメだ」とおっしゃっていたことが心に残っていたこともあり、修士卒業後も日本の児童文学の研究をしていました。働きながら研究を続けていたのですが、院の指導教官だった小田迪夫先生が、私が研究会で発表できるように尽力してくださったことが、現在につながっていると感謝しています。

そうこうするうちに大学の非常勤講師として呼ばれるようになり、気づけば3校かけもちしていました。大阪教育大学での公募に応募して採用された時は、母校で教員になれると思っていなかったので、嬉しい巡り合わせでしたね。それまで働きながら時間を作って研究をしていましたが、研究が仕事になったので意欲に満ちていました。

2,ライフイベントに直面した時
研究者は名前で勝負。婚姻届けを出すにはハードルも

結婚は30才の頃。ちょうど非常勤講師として3校をかけもちしていたので、婚姻届を出すとどうなるのか確認した所、旧姓の使用について契約書や提出書類等の規定が各校バラバラで。とても覚えられないので、婚姻届を提出するのはやめて事実婚にしました。それに研究者は名前で勝負しているところもあるので、名前が変わってしまうと不利益のほうが大きいと感じて。その後は特に不利益が生じなかったので現在に至ります。

夫が高校の教員だったこともあり、私が研究することに理解があってありがたかったです。女性研究者の結婚は配偶者の理解が必要だと思います。私が中国に出張へ行っても何も言わないですし、舅や姑とトラブルがなかったことも夫の理解があったからだと思います。私は料理や家事は好きな方なので、夫に分担してもらうことはありませんでしたが、ちょっと反省するところもあります。つい抱え込みがちになり、やり過ぎてしまって。仕事にもそんなきらいがあり、若い人にお願いしていかないと次の世代が育たないし、自分の仕事の精度にも関わるなと最近は思うようになりました。

母の介護を終えて看取った後に、自分が乳がんに

2010年頃、母に介護が必要になり、父が介護をしていましたが、私も平日は仕事が終わったら実家へ帰って母の話を聞いたり、お風呂やトイレなどの介護をしたりして、土日は自宅へ戻るという生活をしていました。5年ほど介護を続けて、3年前に亡くなったのですが、翌年の2016年に私が乳がんになってしまいました。

検査後すぐに手術の日にちを決めないといけないなど戸惑うことも多かったです。入院、手術で3カ月ほど休みを取りました。退院後も治療は継続して行っています。以前に友人が乳がんとわかってすぐに話をしてくれていたのですが、彼女が回復して今も元気でいてくれることが、私の闘病の支えになったので、自分がなったときは隠さずにいようと思っていました。退院後、同じ研究科の先生方が大人数の授業や学校訪問などの校務系の仕事を変わってくださるなど、どの先生も快くサポートしていただけて感謝の気持ちでいっぱいでした。

乳がんを患いましたが、私が研究や学会発表を続けられたのは、周りのサポートと大学院で教わった松山雅子先生の存在が大きかったです。松山先生はご自身がどんなに大変な状況であっても研究を大切にされていて、「全国発表は毎年必ず行うと決めている」と懸命に研究されている姿を横で見ていて、何があっても研究は続けないといけないと思いました。先生は私が女性研究者として仕事をしていく上で、灯台のように道を照らし、研究の姿勢を教えてくださったと思います。

3,受けた支援と必要な支援
支援員派遣はお互いハッピーになるマッチング

私自身が病気で弱っている時に、父にも介護が必要になり、平日は実家で介護、週末は自宅へ戻る生活を再開するのは大変でした。そんな時、女性研究者支援担当の先生から研究支援員制度を教わり「あなたみたいな人こそ使うべき」と言っていただいたことが、利用する後押しになりました。

今までみたいに、しゃにむにやるだけでは無理と痛感したので、研究支援員派遣を利用し中国語圏の方で日本語ができる方に、大量にある資料の整理作業をしてもらうことにしました。その後、中国の研究者からの依頼で児童文学事典を改訂するため、日本語関係の項目すべてを担当することに。私が中国語で書いていたら間に合わないので、私が話した内容を翻訳したり、私が翻訳した内容をチェックすることができる留学生を派遣してもらいました。毎週来てもらえるので作業が進みます。大阪教育大学で美術の絵本研究をしている院生なのですが、授業では学べない日本児童文学を実践的に学ぶことができるので研究にも役立つようです。支援員の方も機械的な単なるアルバイトではなく、大きく括れば同じ領域だけど、小さなところでちょっと違う研究を垣間見ることができるというのは、その方の研究の助けにもなるのかなと思います。

乳がんになったことをオープンにしていたこともあり、いろんな方から「実は私も」とさまざまな病気を患った方から声をかけていただいて、こんなにたくさん過去に病気になった方や病気を抱えながら働いている方がいるんだと驚いた面もありました。研究者が乳がんなどの病気になった場合も、支援員派遣制度の対象にしていただけると利用する方が増えるのではと感じています。

4,女性研究者へメッセージ
大変なことも楽天的に乗り越えて

女性の院生の指導をしていると、みんな優等生でまじめにコツコツ頑張ってきている子が多いんですね。学生時代は成果が出て認められると思いますが、社会に出ると必ずしも認められるとは限らないですし、高学歴の女性へのある種の偏見もなくはありません。

20代のキャリア形成という点では辛いこともあると思います。さまざまな局面で戦いながら研究していかないといけないし、そういう中で心が折れてしまう人もいます。ですが、腐らずやっていたら、どこかでうまくいくタイミングは訪れます。チャンスは必ずきっとくるので、それまで焦らずに挑んでいてほしいですね。

女性の40代は子育て、介護、自分の心身の変化など、いろいろ大変なことが一度にやってくる気がします。昨年の私は周りの人からみたら大変な状態だったかもしれませんが、なんとかやってこられたのは、楽天的な性格だったからかなと思います。

女性研究者の場合、結婚・子育て・介護などによるライフスタイルの変化は人によって大きく異なると思いますが、完璧を目指しすぎず「なんとかなる」と思って乗り越えてほしいですね。

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